産業界は、四日市公害裁判での敗訴に驚き、全国で公害裁判が起こることを防止する意味から公害健康被害補償法の成立に賛成した。しかし、制度発足直後から、この制度の廃止に向けて策動をはじめた。この策動は、政府と産業界、そして学者の一部が一体となった策動であった。
1978年7月にはNO2の環境基準が2?3倍に緩和され、それまで全国の9割の地域が環境基準を超えた汚染地域であったのが、緩和された翌日には汚染状況は何ら変わっていないのに、今度は全国の9割の地域が環境基準を
下回る非汚染地域になってしまった。そいて、今度は補償法の廃止に向けたキャンペーンを開始した。
患者会は、全力を上げてこの補償法廃止の策動と闘った。その闘いは5年あまりに及んだが、1987年9月、全国の大気汚染地域の指定が解除され、新たな公害患者を認めないこととなった。