「日本の大気汚染公害被害者運動」


 

伊藤 栄
全国公害患者の会連合会事務局長
 
 
  1.  1950年代から始まった日本の経済の高度成長は、全国の拠点都市の重化学工業化と大都市化をその特徴としていた。そして、それは大気汚染の激化を意味していた。
     1960年には、わが国最初の石油化学コンビナートである四日市で、喘息患者が発生した。1967年には、被害者はコンビナートを形成する企業を相手に、損害賠償訴訟が提起され、1972年7月に被害者への損害賠償を認める判決が言い渡された。
     この四日市での裁判の勝訴に励まされ、全国の公害被害者は被害者の救済を求めて運動を強化し、1973年10月に「公害健康被害補償法」を勝ち取った。こうした闘いの中で、1973年10月に「全国公害患者の会連絡会」が結成された。
  2. この公害健康被害補償法は、水質汚濁と大気汚染による健康被害者を対象とする制度であり、その費用はPPPの原則により、基本的に汚染原因企業からの費用負担によってまかなわれることになっている。大気汚染の場合は、大気汚染が激しく、呼吸器病患者の多発している地域の、慢性気管支炎、喘息、肺気種などの4疾病の患者に治療費や障害補償費が支給される。大気汚染指定地域は全国41ヵ所で、1988年に制度が改悪され新たな患者の認定をしなくなるまで、全国の認定患者は11万人にのぼった。しかし、その障害補償費は、被害者の損害すべてを補填するものではなく、障害補償費も一部に止まり、慰謝料は認められていなかった。
  3.  産業界は、四日市公害裁判での敗訴に驚き、全国で公害裁判が起こることを防止する意味から公害健康被害補償法の成立に賛成した。しかし、制度発足直後から、この制度の廃止に向けて策動をはじめた。この策動は、政府と産業界、そして学者の一部が一体となった策動であった。
     1978年7月にはNO2の環境基準が2?3倍に緩和され、それまで全国の9割の地域が環境基準を超えた汚染地域であったのが、緩和された翌日には汚染状況は何ら変わっていないのに、今度は全国の9割の地域が環境基準を

    下回る非汚染地域になってしまった。そいて、今度は補償法の廃止に向けたキャンペーンを開始した。
     患者会は、全力を上げてこの補償法廃止の策動と闘った。その闘いは5年あまりに及んだが、1987年9月、全国の大気汚染地域の指定が解除され、新たな公害患者を認めないこととなった。

  4. こうした産業界の策動に対し、公害被害者も損害賠償だけでなく、大気汚染公害の根絶を求めて新たな公害裁判を準備しはじめた。1975年5月、千葉市の公害認定患者が川崎製鉄を被告として、汚染物質の環境基準以下への排出差止めと損害の賠償を求めて、裁判を提起した。以降、別表のとおり全国6ヵ所で約2200人の大気汚染公害被害者が裁判を提起している。
     これら6つの裁判のうち、千葉と倉敷は工場だけを被告としているが、大阪西淀川、川崎、尼崎、名古屋の裁判は、工場だけでなく道路を走行する自動車からの大気汚染も問題としており、道路を管理する国、高速道路公団などが被告になっている。
  5.  工場からの排煙の責任については、千葉、大阪西淀川、川崎、倉敷で原告勝利の判決が出され、すでに千葉と大阪西淀川では、原告被害者側勝利の和解が成立している。
     道路からの自動車排ガスによる公害責任についても、1995年7月、大阪西淀川側の判決で、初めて道路の公害責任を認める判決を勝ち取った。
     しかし、差止請求には、裁判所は消極的な姿勢をとりつづけている。
  6.  全国公害患者の会連絡会の23年にわたる活動が可能になったのは、被害者の連帯した活動と、医師、弁護士、研究者などとの協力関係、そして国民の支持があったからである。
     各地で患者会が組織され、専従者を置いているだけでなく、こうした全国の患者会が全国連絡会に結集していることが、こうした活動を可能にしている。さらには、大気汚染公害被害者だけでなく、水俣病、イタイイタイ病、スモン、カネミ油症、空港や道路の騒音公害など、全国の被害者が「全国公害被害者総行動実行委員会」に結集して、年1回、各省庁との交渉をしていることの意義も大きい。
     産業界の巻き返しの策動は「科学」を装った巧妙なものである。こうした「エセ科学」を打ち破るには、医師、弁護士、研究者などとの協力が不可欠である。とりわけ裁判では、こうした専門家の協力がなければ勝利することは不可能といってよい。
     大気汚染公害被害者の願いは、「こんな苦しみを子や孫に味合わせたくない」ということである。日本に、世界に、きれいな空気を取りもどすまで、公害の生き証人として頑張る決意である。